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| 【日 時】 | 2009年11月16日(月)18:00〜19:50 |
| 【会 場】 | JSTイノベーションプラザ宮城 2階 交流ラウンジ |
| 【テーマ】 | 山形発たくましい企業の発想から”成功へのカギ”! 「私のもの作り、会社作り」 |
| 【話し手】 | 後藤 芳秀 氏 後藤電子株式会社 代表取締役 |
| 【内容】 |
| 真四角電線の発明を基にして、それを適用した数々の新製品を世に送り出すとともに、海外展開及び更なる新製品の開発に積極的に取り組んでおられる後藤社長の、これまで歩んでこられた道程と会社経営の哲学を1時間以上に亘ってお話し頂きました。 | ![]() |
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後藤社長の会社経営哲学:「仕事はそれに従事する人を幸せにするものでなければならない。そのためには海外展開した場合その地に根を下ろすことも必要。また人を幸せにするためには会社を常時発展させる必要があり、技術開発を行っていくことが肝要。」仕事に情熱をもてず給料の高いほうになびく人、ある土地で会社を構えても儲からなくなるとすぐに撤退する会社は良くないと仰いました。 |
| 後藤社長のこれまでの会社経営、もの作りにかける情熱は、お母様の影響が大きいと感じました。お母様は20〜30名のお針子を雇って事業をしてが、1963年にパイン電子という会社を設立して絹糸から電線を扱う事業に転換し、同じ20〜30名の従業員で電線のコイル巻きを実施。戦時中学徒動員でプロペラ製造に従事していたので、電気関係の事業への移転はスムーズだったということでした。 | ![]() |
| 後藤社長の会社経営の方針は、次のように纏められると思います。 |
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| (1) | 時代の先読みが確か。その先読みを素早く実行に移す決断の速さ、オーナーとしての決断力。 1986年中国(上海)に進出。当時国内大手企業は中国進出に批判的(共産系のため)。大手企業とは組まない姿勢を貫いていた後藤社長は、大手企業の進出していない中国を選択。 1989年天安門事件が起り、日本の企業は全て撤退。誰もいない中国では事業拡大のチャンスと捉えて現地に残留。町村と合弁会社を設立。 同様にメキシコでも、不景気で日系企業が撤退する中で、逆に優秀な人材が後藤電子鰍ノ集まると考えて現地に残留。 |
| (2) | 現地(中国上海)の人達とあらゆる現地状況を取り入れて交流し、信頼関係を構築(現地に根を下ろす方針を自ら実施)。 現金持参支払い、ハンドキャリアで製品持ち出し・材料持ち込み、カラオケ設置による交流、町村との合弁会社設立等の実績を残す。 |
| (3) | 災いを転じて福となす柔軟な発想と決断。 もらい火で工場(上海)2/3消失。保険金で工場増築。新工場を設置し火災によるリスク回避。 |
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後藤社長の社員採用のポリシーは、質問に答える形で下記のように披露されました。技術開発を実施し、常に会社が発展して新製品を生み出し続けるために、社員の30%を開発に振り向けています。 (1)新卒、中途採用、大卒等に囚われない。中卒でも構わないし年齢制限も問わない。給料も仕事に応じて支払うため、年齢の順に給料が決まっていない。 (2)採用のためのキーワード:やる気、発想の豊かさ、物を相手の視点で見られる、理論が分かって仕事に生かせる、社員から親しまれ包容力がある。 |
| 研究開発から民活を利用して新製品の量産体制を早く構築する重要性を、山形県で開発している有機ELを例に挙げて力説されました。JSTがシーズを発掘・育成して事業化のための研究開発後、事業化を目指して次の展開に繋ぐためには、民活を利用するマイルストーンをしっかりと敷いて研究開発を実施すべきであると改めて認識させられました。 | ![]() |